店の近くには学校と裁判所が向い合せにあります。
大きなというか注目度の高い裁判の時には報道と傍聴人が多いです。
幸い今はそういうのがありません。
新学期を桜が祝ってるようです。
2012年4月16日月曜日
2012年4月14日土曜日
#きりんさんのお便り 満開の奈良公園
奈良公園のさくら巡りに出かけてきました。
近鉄奈良駅から散策しながら取り合えず東に・・・ 県庁前辺りから奈良公園であちらこちらに鹿の姿が見られます。
まず、最初に寄ったのが氷室神社で此処の枝垂桜がとても綺麗に咲き誇っていました。
少し歩けば華の有名な東大寺があり参道には鹿がたくさんいて歩くにも邪魔になるほどです。
東大寺の境内には大仏殿やお水取りで有名な二月堂など色んな神社、お寺が数多くあります。
そして東大寺からは若草山を至って春日大社へ・・・
2012年4月13日金曜日
#きりんさんのお便り 京都さくらよさこい 2012
今年8回目の「京都さくらよさこい」(7.8日)は晴天恵まれどちらの会場も盛り上がりがったことでしょう。
私は今年初めての公開となった平安神宮応天門前演舞場に出かけてきました。
ここでは奉納演舞として十人十彩、華鹿、京炎そでふれ!彩京前線、京都チーム「櫻嵐洛」の4チームの舞が披露されました。
そしてゲストチームとして参加している「郷人」が此処では演舞しませんでしたが記念撮影をしていました。
私は今年初めての公開となった平安神宮応天門前演舞場に出かけてきました。
ここでは奉納演舞として十人十彩、華鹿、京炎そでふれ!彩京前線、京都チーム「櫻嵐洛」の4チームの舞が披露されました。
そしてゲストチームとして参加している「郷人」が此処では演舞しませんでしたが記念撮影をしていました。
2012年4月7日土曜日
#きりんさんのお便り 和歌山城の桜
昨日、今日と花冷えと言った日々がつづいています。
南に位置する大阪や京都ではまだ咲き始めか五分咲きなのに不思議な気がします。
でも、和歌山城ではほぼ満開の状態で城周りのところではブルーシートを広げて花見の場所取りしていました。
通りには屋台が立ち並び大勢の花見客、観光客、家族連れなどで凄く賑わっていました。
天守閣から眺めた先には紀ノ川から大阪湾が幽かに見わたせること出来ます。
南に位置する大阪や京都ではまだ咲き始めか五分咲きなのに不思議な気がします。
でも、和歌山城ではほぼ満開の状態で城周りのところではブルーシートを広げて花見の場所取りしていました。
通りには屋台が立ち並び大勢の花見客、観光客、家族連れなどで凄く賑わっていました。
天守閣から眺めた先には紀ノ川から大阪湾が幽かに見わたせること出来ます。
2012年4月6日金曜日
#きりんさんのお便り 桜咲き誇る
連日の気候が嘘のようで南紀和歌山では桜が満開を迎えていました。
久し振りに今朝は天候がよく気晴らしに紀州は和歌山の紀三井寺に出かけて見ますとなんともう桜は満開を迎えていて見応えがありました。
久し振りに今朝は天候がよく気晴らしに紀州は和歌山の紀三井寺に出かけて見ますとなんともう桜は満開を迎えていて見応えがありました。
2012年4月5日木曜日
上田恒次先生の大皿
京都らしい作家です
1945年岩倉木野に築窯する。
河井寛次郎の助手を務め、技法を次ぐことを許される。
これは赤絵ですが白磁の物が多い。
晩年展覧会を手伝わせてもらった。常の温厚な人柄と陶器のことを話すときは別人のようでした。
自分の家、富本記念館の建築にも尽力された建築家でもありました。
1945年岩倉木野に築窯する。
河井寛次郎の助手を務め、技法を次ぐことを許される。
これは赤絵ですが白磁の物が多い。
晩年展覧会を手伝わせてもらった。常の温厚な人柄と陶器のことを話すときは別人のようでした。
自分の家、富本記念館の建築にも尽力された建築家でもありました。
2012年4月3日火曜日
赤穂緞通
幻の緞通といわれる赤穂緞通、鍋島、堺と並んで日本の代表的な緞通。
私が店に出た頃にはまだ十枚揃いとかきれいなものもありました。
昭和の初めから戦前までが最盛期、今二十数名赤穂には織手がいますが売り物ができるのは数名。
昔でも織子を酷使して三ヶ月。奥様が家庭の仕事と両立では一年はかかる。
やっぱり古いものを探さねば仕方ない。
ネットなんかでも売買されていて高くなってきました。
私が店に出た頃にはまだ十枚揃いとかきれいなものもありました。
昭和の初めから戦前までが最盛期、今二十数名赤穂には織手がいますが売り物ができるのは数名。
昔でも織子を酷使して三ヶ月。奥様が家庭の仕事と両立では一年はかかる。
やっぱり古いものを探さねば仕方ない。
ネットなんかでも売買されていて高くなってきました。
猪飼嘯谷 翁とて侘やは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ
尾張浜主、その名前がそのまま画題になっています。
猪飼嘯谷の染筆です。
尾張浜主、奈良末期から平安初期にかけての楽人。舞の名手として名高く、日本雅楽の形成に重要な役割を果たしたとされます。
これは大極殿で行われた最勝会にて、113歳にして舞を舞い、その翌々日には、清涼殿でも同じく舞を舞い、人々を驚かせ、天皇に御衣を下賜された。と伝承される故事を描いたものです。
“年寄だからと言って逼塞(ひっそく)してなどおりましょうか。草も木も栄えるこのめでたい時節に、出て行って舞いましょう。”という意味の歌。
猪飼嘯谷、谷口香嶠(こうきょう)に四条派をまなぶ。歴史画が多い。京都出身。
猪飼嘯谷の染筆です。
尾張浜主、奈良末期から平安初期にかけての楽人。舞の名手として名高く、日本雅楽の形成に重要な役割を果たしたとされます。
これは大極殿で行われた最勝会にて、113歳にして舞を舞い、その翌々日には、清涼殿でも同じく舞を舞い、人々を驚かせ、天皇に御衣を下賜された。と伝承される故事を描いたものです。
“年寄だからと言って逼塞(ひっそく)してなどおりましょうか。草も木も栄えるこのめでたい時節に、出て行って舞いましょう。”という意味の歌。
猪飼嘯谷、谷口香嶠(こうきょう)に四条派をまなぶ。歴史画が多い。京都出身。
登録:
投稿 (Atom)